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心中天網島 稽古開始

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9月14日(月)稽古開始。

俳優全員が揃い、顔合わせと読み合わせ。

配役。

小春/早野ゆかり、紙屋治兵衛/三田直門、おさん/青田いずみ、粉屋孫右衛門/山谷勝巳、身すがらの太兵衛/藤田三三三、五左衛門/佐藤昇、叔母/神保麻奈

語りと演奏/岩佐鶴丈、蓬莱照子、演奏/藤田佐知子

テキストは近松の原文を構成したもの。
当然、語りの要素が加わることになる。
それを薩摩琵琶の岩佐鶴丈氏と女優であり新内もやる蓬莱照子氏、両人が行う。
平曲を中心にした男性的な語りの岩佐さんと、女性的な情緒を語る新内の蓬莱さんとのジョイントが楽しみ。そして、岩佐さんには小春の、蓬莱さんには治兵衛の行動を語らせるところがポイントである。

今回は、字幕の使用も演出の作為がある。字幕は、テキストに採用された近松の原文が映し出される。音楽とともに、語りとともに、また、その両者とともに舞台上に映し出されるのだが、字幕だけを独立させる場合もある。そのときは、語りや音楽とのカラミなしに俳優の演技と文字という二次元の世界が、交錯する。文字を舞台美術のひとつとも考えたい。

演技は、場面によって、二つの位相がある。
上の巻、下の巻の小春の出る場面と、中の巻の小春が出ない場面は、浄瑠璃の様式を生かした語りものとしての演技と、対話劇としての演技にわかれる。

その演技の位相だが、演出としては、歌舞伎における丸本物、つまり、人形浄瑠璃を歌舞伎に移入した作品の再考を念頭に置いている。
原則、太夫が一人で全てを語る文楽に対して、歌舞伎へそれらの作品が移入された時に、ことばの部分を当然役者がセリフとして言い、それ以外の地の部分を歌舞伎の太夫は語るが、どうしても役者の演技というものが、中心になっているように思われる。しかし、文楽では太夫が中心であり、演ずる人形は太夫の語りに合わせていく。つまり、イニシアティブをとっているものが、文楽と歌舞伎では、逆であるように思われる。厳密に言えばそうでいかもしれないが、そういった印象を受ける。
この話は、あまり深く立ち入らない。今回の演出に話を戻すと、その語りと役者、そして、テキスト(文字)の関係性を見つめ直すことで、新たな演劇空間を創出できないかということを考えている。

近松の心中物は、すでにおこっている実際の事件をもとに書かれている。当時の観客にとって、つい最近死んだものが、人形になって蘇ってくるのを目撃した時の衝撃たるやいかがなものであったか。
それは、単にスキャンダラスなインパクトだけではなく、死者の再生の儀式ともこの世とあの世が通じ合う開かれた場の現出とも感じたのではないか。そこに集まる観客は、招魂の儀式に立ち会う神聖な感情を心のどこかに感じていたと思う。さて、小春治兵衛が実在の人物であった記憶が消滅し、物語の世界の住人になっている現代、この作品がいかにして招魂の儀式たりえるか。

天網島は、物語としてもとてもよく書かれている。
登場人物のひとりひとりの内面が交錯し、その心と心の葛藤が新たな局面を生み出していく。
そういった意味では近代劇としての側面もしっかり持っている。

常に演出として意識していることは、観客の想像力とともにある作品作りだ。
見せなければならないものを全て見せない。
むしろ、舞台上にないものを観客に想像させる。
演技の様式、語りと文字の役割、そういったものに加え、舞台美術の側面では、影絵の要素を盛り込む。詳細をこの時期にここで記すことは控えるが、観客の想像力を刺激する空間であり、廓という世界、心中する道行などに効果を表すと思う。

・・・

一旦、筆を置く。
稽古を進めていこう。

・カンゾウのメモ 14日(月)中板橋「じゅんこ」、15日(火)中板橋「鏑川」
by yugikukan2 | 2015-09-16 09:13 | 稽古場日誌
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